トラ猫だったと思う。
いつも人間の顔色をうかがっているようなおどけた猫だった。
あの日、40度を超えるうだるような猛暑で猫もぼくも狂っていたのかもしれない。
床に盛られた排泄物の前で、猫は媚びるような目でぼくをみつめていた。薄らわらいを浮かべて許しを乞うようにぼくをみつめている。ぼくは今度ばかりは許すまいと無表情で猫の目を見た。猫は相変わらずヘラヘラとぼくをみつめている。ぼくも猫の目を見る。
この猫は巨大な道化師か。あるいは感情を持ったヌイグルミか。しばしの睨みあいが続いたが、とうとう堪えきれなくなった猫は視線をはずし、チッと舌打ちをしたあとにニャーと鳴いた。
その瞬間、ぼくの中のなにかがキレた。
目覚めると全身に汗をかいていた。
そして、手のひらに残ったぐにゃりとした生々しい感触。
いやな夢だった。
いつも人間の顔色をうかがっているようなおどけた猫だった。
あの日、40度を超えるうだるような猛暑で猫もぼくも狂っていたのかもしれない。
床に盛られた排泄物の前で、猫は媚びるような目でぼくをみつめていた。薄らわらいを浮かべて許しを乞うようにぼくをみつめている。ぼくは今度ばかりは許すまいと無表情で猫の目を見た。猫は相変わらずヘラヘラとぼくをみつめている。ぼくも猫の目を見る。
この猫は巨大な道化師か。あるいは感情を持ったヌイグルミか。しばしの睨みあいが続いたが、とうとう堪えきれなくなった猫は視線をはずし、チッと舌打ちをしたあとにニャーと鳴いた。
その瞬間、ぼくの中のなにかがキレた。
目覚めると全身に汗をかいていた。
そして、手のひらに残ったぐにゃりとした生々しい感触。
いやな夢だった。
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その朝、少年は言葉を知った。もちろん生まれてからこのかた、彼は言葉を人なみに話してきたし、いくつかの文字も書くこともできた。その年ごろの少年としては、語彙はむしろ多いほうだったし、実際、彼はそれらをなかなか巧みに使っておどしたり、だましたり、あまえたり、ときには本当のことを言ったりもしていたのだが、それはそれだけのことだった。いまとなっては、ただ使うだけの言葉などというものは、とるに足らぬもののようにも思えるのである。
きっかけはごく些細なことだった。その朝彼は突堤の先端に腰かけて、誰もがやるように足をぷらんぷらんさせていたのである。そのとき、なまあたたかい波しぶきが、はだしの踝にかかったのだ。周囲に語りかけるべき他人はいなかったし、それはべつに言葉にする必要など全くないささやかな出来事だったのだが、なんのはずみか彼はその瞬間、<海>という言葉と<ぼく>という言葉を、全く同時に頭の中に思い浮かべたのである。
それから先、彼には考えることも、言葉にすべきこともべつになかった。彼はだから、<海>・<ぼく>というふたつの言葉を、ぼんやりと頭の中でおはじきでもするみたいに、ぶつかり合わせていたのだが、そのうちに妙なことが起こった。<海>という言葉が頭の中でどんどん大きくなってゆき、それが、頭からあふれ出して、目の前の海と丁度ふたつの水滴が合体するような工合に、突然とけ合ってひとつになってしまったのである。それと同時に、<ぼく>という言葉のほうは、細い針の尖のように小さく小さくなっていったけれども、それは決して消滅はしなかった。むしろ小さくなればなるほど、それは頭の中から彼のからだの中心部へと下りてゆきながら輝きを増し、いまや海ととけ合った<海>の中で、一個のプランクトンのように浮遊しているのだった。
これは少年にとって思いがけぬ経験だったが、彼は少なくとも初めのうちはおどろきもしなかったし、不安も感じなかった。それどころか彼は口に出して、したり顔に「なるほどね」と言ったくらいだ。しかしもちろん、冷静だったというわけでもない。彼はからだの内部に、自分のものではない或る強い力の湧いてくるのを感じた。思わず立ち上がりながら、彼は、「そうか、海は海だってことか」と呟いた。そうしたら、急に笑い出したくなった。「そうさ、これは海なんだよ、海という名前のものじゃなくて海なんだ」もし友人がかたわらにいたら、こんな独白は一笑に付せられただろう。頭の隅でちらとそんなことを考えながら、彼はふたたび呟いた。「ぼくはぼくだ。ぼくはここにいるんだ、ここに」そうして今度は、泣き出したくなった。
急に彼はおそろしくなった。頭の中を空っぽにしたかった。<海>も<ぼく>も消してしまいたくなった。言葉がひとつでも思い浮かぶと、頭が爆発するんじゃないかと思った。言葉という言葉が大きさも質感もよく分からないものになってきて、たったひとつでも言葉があたまを占領したら、それが世界中の他のありとあらゆる言葉にむすびつき、とどのつまりは自分が世界に呑みこまれて死んでしまうのではないかと感じたのだ。
だがその年ごろの少年の常として、彼は自分で自分を見失うというようなとこはなかった。自分でも気づかぬうちに彼は突堤へ来る途中で買って手にもっていたコカコーラのカンの栓をぬこうとした。けれどおどろいたことにそれができなかった。どうしてかと言うと、手にしたカンを一目見たとたん、彼の頭の中にまるでいなごの大群のような無数の群が襲いかかってきたからである。それはしかし必ずしも予期したようなおそろしい事態ではなかった。逃げちゃいけない、踏みとどまるんだ、年上のずっと背丈の大きい少年相手の喧嘩のときと同じように、彼は恐怖をのりこえるただひとつの道を択んだ。赤と白に塗り分けられた手の中のカンは、言葉を放射し、言葉を吸収し、生あるもののように息をしていた。苦しいのか嬉しいのかもよく分からぬまま、彼は言葉の群に立ち向かった。渦巻くまがまがしい霧のように思えたその大群も、ひとつまたひとつと分断してゆけば、見慣れた漫画のページの上にある単語と変わらないものだった。
この一種の戦いは、実際には悪夢の中でのように一瞬の間に行われたのである。たとえば彼がカンのへりの上に、そこから始まる、あるいはそこで終わる無限の宇宙を見たとしても、彼自身は全くそのことを意識しなかった。彼は自分のもつ語彙のすべてをあげて、自分を呑みこもうとする得体の知れぬものを、片端から命名していったのだと、そういうふうに言うことも可能だろうが、その中にはまだ彼の意識下に眠っている未来の語彙までもが含まれていたのだ。
一個の未知の宇宙生物にもたとえられう言葉の総体が、一冊の辞書の幻想にまで収約したとき、彼の戦いは終わっていた。海はふたたび海という名のものに戻っておだやかにうねり、少年は手の中のコカコーラのカンの栓をぬき、泡立つ暗色の液体を一息に飲みほして、咳きこんだ。「コカコーラのカンさ」と彼は思った。一瞬まえにはそれは、化物だったのだ。
彼はからっぽになったカンをいつものように海へと投げるかわりに、踏みつぶした。はだしの足は多少痛んだけれども、かまわずに何度も何度もぺちゃんこになるまで踏んだ。彼自身はその奇妙な経験をむしろ恥じていて、それを他人に伝えようなどとは考えもしなかったし、またそこから何かを学ぶということもなかった。その日から数十年をへて、年老いた彼が死の床に横たわっているとき、なんの脈絡もなくこの出来事を思い出すとしても、それは他のあらゆる思い出とおなじく、すでにとらえられることの難しい一陣の風のようなものに変質してしまっているのだろうが、それ故にそれはまた、失われつつある五感とはべつの感覚を刺激して、彼をおびやかすにちがいない。
その朝、少年は足元の踏みつぶされたコカコーラのカンを見下ろして、ただの一言、「燃えないゴミ」と呟いたにすぎなかった。
「 コカコーラ・レッスン 」
きっかけはごく些細なことだった。その朝彼は突堤の先端に腰かけて、誰もがやるように足をぷらんぷらんさせていたのである。そのとき、なまあたたかい波しぶきが、はだしの踝にかかったのだ。周囲に語りかけるべき他人はいなかったし、それはべつに言葉にする必要など全くないささやかな出来事だったのだが、なんのはずみか彼はその瞬間、<海>という言葉と<ぼく>という言葉を、全く同時に頭の中に思い浮かべたのである。
それから先、彼には考えることも、言葉にすべきこともべつになかった。彼はだから、<海>・<ぼく>というふたつの言葉を、ぼんやりと頭の中でおはじきでもするみたいに、ぶつかり合わせていたのだが、そのうちに妙なことが起こった。<海>という言葉が頭の中でどんどん大きくなってゆき、それが、頭からあふれ出して、目の前の海と丁度ふたつの水滴が合体するような工合に、突然とけ合ってひとつになってしまったのである。それと同時に、<ぼく>という言葉のほうは、細い針の尖のように小さく小さくなっていったけれども、それは決して消滅はしなかった。むしろ小さくなればなるほど、それは頭の中から彼のからだの中心部へと下りてゆきながら輝きを増し、いまや海ととけ合った<海>の中で、一個のプランクトンのように浮遊しているのだった。
これは少年にとって思いがけぬ経験だったが、彼は少なくとも初めのうちはおどろきもしなかったし、不安も感じなかった。それどころか彼は口に出して、したり顔に「なるほどね」と言ったくらいだ。しかしもちろん、冷静だったというわけでもない。彼はからだの内部に、自分のものではない或る強い力の湧いてくるのを感じた。思わず立ち上がりながら、彼は、「そうか、海は海だってことか」と呟いた。そうしたら、急に笑い出したくなった。「そうさ、これは海なんだよ、海という名前のものじゃなくて海なんだ」もし友人がかたわらにいたら、こんな独白は一笑に付せられただろう。頭の隅でちらとそんなことを考えながら、彼はふたたび呟いた。「ぼくはぼくだ。ぼくはここにいるんだ、ここに」そうして今度は、泣き出したくなった。
急に彼はおそろしくなった。頭の中を空っぽにしたかった。<海>も<ぼく>も消してしまいたくなった。言葉がひとつでも思い浮かぶと、頭が爆発するんじゃないかと思った。言葉という言葉が大きさも質感もよく分からないものになってきて、たったひとつでも言葉があたまを占領したら、それが世界中の他のありとあらゆる言葉にむすびつき、とどのつまりは自分が世界に呑みこまれて死んでしまうのではないかと感じたのだ。
だがその年ごろの少年の常として、彼は自分で自分を見失うというようなとこはなかった。自分でも気づかぬうちに彼は突堤へ来る途中で買って手にもっていたコカコーラのカンの栓をぬこうとした。けれどおどろいたことにそれができなかった。どうしてかと言うと、手にしたカンを一目見たとたん、彼の頭の中にまるでいなごの大群のような無数の群が襲いかかってきたからである。それはしかし必ずしも予期したようなおそろしい事態ではなかった。逃げちゃいけない、踏みとどまるんだ、年上のずっと背丈の大きい少年相手の喧嘩のときと同じように、彼は恐怖をのりこえるただひとつの道を択んだ。赤と白に塗り分けられた手の中のカンは、言葉を放射し、言葉を吸収し、生あるもののように息をしていた。苦しいのか嬉しいのかもよく分からぬまま、彼は言葉の群に立ち向かった。渦巻くまがまがしい霧のように思えたその大群も、ひとつまたひとつと分断してゆけば、見慣れた漫画のページの上にある単語と変わらないものだった。
この一種の戦いは、実際には悪夢の中でのように一瞬の間に行われたのである。たとえば彼がカンのへりの上に、そこから始まる、あるいはそこで終わる無限の宇宙を見たとしても、彼自身は全くそのことを意識しなかった。彼は自分のもつ語彙のすべてをあげて、自分を呑みこもうとする得体の知れぬものを、片端から命名していったのだと、そういうふうに言うことも可能だろうが、その中にはまだ彼の意識下に眠っている未来の語彙までもが含まれていたのだ。
一個の未知の宇宙生物にもたとえられう言葉の総体が、一冊の辞書の幻想にまで収約したとき、彼の戦いは終わっていた。海はふたたび海という名のものに戻っておだやかにうねり、少年は手の中のコカコーラのカンの栓をぬき、泡立つ暗色の液体を一息に飲みほして、咳きこんだ。「コカコーラのカンさ」と彼は思った。一瞬まえにはそれは、化物だったのだ。
彼はからっぽになったカンをいつものように海へと投げるかわりに、踏みつぶした。はだしの足は多少痛んだけれども、かまわずに何度も何度もぺちゃんこになるまで踏んだ。彼自身はその奇妙な経験をむしろ恥じていて、それを他人に伝えようなどとは考えもしなかったし、またそこから何かを学ぶということもなかった。その日から数十年をへて、年老いた彼が死の床に横たわっているとき、なんの脈絡もなくこの出来事を思い出すとしても、それは他のあらゆる思い出とおなじく、すでにとらえられることの難しい一陣の風のようなものに変質してしまっているのだろうが、それ故にそれはまた、失われつつある五感とはべつの感覚を刺激して、彼をおびやかすにちがいない。
その朝、少年は足元の踏みつぶされたコカコーラのカンを見下ろして、ただの一言、「燃えないゴミ」と呟いたにすぎなかった。
「 コカコーラ・レッスン 」
あの日見た光は本物だった。
わが母校は1回戦で敗退したのだが、その熱狂的で且つ真摯な応援姿勢が評価されて「最優秀応援賞」なるものを受賞した。対戦相手の校歌斉唱のときにはあたたかい手拍子をおくり、試合後も選手たちは相手の応援席に一礼し、わが応援団も相手の応援団に拍手をおくっていた。そしてなによりも圧巻の迫力ある応援光景。いや、実際見たわけではなく、ラジオで聴いていただけなのだが、それでも試合の熱気と応援の迫力はじゅうぶんに伝わってきた。映像がないだけによけいに音声から想像をかきたてられたのだろう。
1月に久しぶりにシマに帰ったときに、母校の校門をカメラに収めてきた。そして東京にもどる前の日に、同窓の元野球部だったSと酒をのんだ。その時はまだ21世紀枠での「出場候補」という段階だった。高校時代は野球ひとすじだったSは、21世紀枠だろうが甲子園は夢のまた夢で選ばれるのは奇跡にちかい、と酒をのみながら切々と語っていた。
そして出場が決まった日、後輩たちの快挙をSはだれよりも喜んでいた。
試合当日もちろん彼は、船と深夜バスを乗り継いで甲子園まで後輩たちの応援をしにいった。球場にはいって感極まった彼は、ぜんぜん関係のない試合の他校の校歌を聴いただけで早くも涙したのだ。
わが母校が光なら、彼もまた光なのかもしれない。
客を降ろした後すぐにラジオをつけると、9回の攻撃ランナーなしでキャプテン重原の打席だった。どうしても塁に出たい・・ 3ボールをファーボールと勘違いして思わず1塁へ走りかける。どうしても塁に出たいんだ・・ 粘りに粘って渾身のファーボールを選ぶ。アルプススタンドの割れんばかり歓声を受け、キャプテン重原は満面の笑顔で一塁へと疾走していった。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革衣
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる・・・・
「 汚れつちまつた悲しみに・・・・ 」
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革衣
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる・・・・
「 汚れつちまつた悲しみに・・・・ 」