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その朝、少年は言葉を知った。もちろん生まれてからこのかた、彼は言葉を人なみに話してきたし、いくつかの文字も書くこともできた。その年ごろの少年としては、語彙はむしろ多いほうだったし、実際、彼はそれらをなかなか巧みに使っておどしたり、だましたり、あまえたり、ときには本当のことを言ったりもしていたのだが、それはそれだけのことだった。いまとなっては、ただ使うだけの言葉などというものは、とるに足らぬもののようにも思えるのである。

きっかけはごく些細なことだった。その朝彼は突堤の先端に腰かけて、誰もがやるように足をぷらんぷらんさせていたのである。そのとき、なまあたたかい波しぶきが、はだしの踝にかかったのだ。周囲に語りかけるべき他人はいなかったし、それはべつに言葉にする必要など全くないささやかな出来事だったのだが、なんのはずみか彼はその瞬間、<海>という言葉と<ぼく>という言葉を、全く同時に頭の中に思い浮かべたのである。

それから先、彼には考えることも、言葉にすべきこともべつになかった。彼はだから、<海>・<ぼく>というふたつの言葉を、ぼんやりと頭の中でおはじきでもするみたいに、ぶつかり合わせていたのだが、そのうちに妙なことが起こった。<海>という言葉が頭の中でどんどん大きくなってゆき、それが、頭からあふれ出して、目の前の海と丁度ふたつの水滴が合体するような工合に、突然とけ合ってひとつになってしまったのである。それと同時に、<ぼく>という言葉のほうは、細い針の尖のように小さく小さくなっていったけれども、それは決して消滅はしなかった。むしろ小さくなればなるほど、それは頭の中から彼のからだの中心部へと下りてゆきながら輝きを増し、いまや海ととけ合った<海>の中で、一個のプランクトンのように浮遊しているのだった。

これは少年にとって思いがけぬ経験だったが、彼は少なくとも初めのうちはおどろきもしなかったし、不安も感じなかった。それどころか彼は口に出して、したり顔に「なるほどね」と言ったくらいだ。しかしもちろん、冷静だったというわけでもない。彼はからだの内部に、自分のものではない或る強い力の湧いてくるのを感じた。思わず立ち上がりながら、彼は、「そうか、海は海だってことか」と呟いた。そうしたら、急に笑い出したくなった。「そうさ、これは海なんだよ、海という名前のものじゃなくて海なんだ」もし友人がかたわらにいたら、こんな独白は一笑に付せられただろう。頭の隅でちらとそんなことを考えながら、彼はふたたび呟いた。「ぼくはぼくだ。ぼくはここにいるんだ、ここに」そうして今度は、泣き出したくなった。

急に彼はおそろしくなった。頭の中を空っぽにしたかった。<海>も<ぼく>も消してしまいたくなった。言葉がひとつでも思い浮かぶと、頭が爆発するんじゃないかと思った。言葉という言葉が大きさも質感もよく分からないものになってきて、たったひとつでも言葉があたまを占領したら、それが世界中の他のありとあらゆる言葉にむすびつき、とどのつまりは自分が世界に呑みこまれて死んでしまうのではないかと感じたのだ。

だがその年ごろの少年の常として、彼は自分で自分を見失うというようなとこはなかった。自分でも気づかぬうちに彼は突堤へ来る途中で買って手にもっていたコカコーラのカンの栓をぬこうとした。けれどおどろいたことにそれができなかった。どうしてかと言うと、手にしたカンを一目見たとたん、彼の頭の中にまるでいなごの大群のような無数の群が襲いかかってきたからである。それはしかし必ずしも予期したようなおそろしい事態ではなかった。逃げちゃいけない、踏みとどまるんだ、年上のずっと背丈の大きい少年相手の喧嘩のときと同じように、彼は恐怖をのりこえるただひとつの道を択んだ。赤と白に塗り分けられた手の中のカンは、言葉を放射し、言葉を吸収し、生あるもののように息をしていた。苦しいのか嬉しいのかもよく分からぬまま、彼は言葉の群に立ち向かった。渦巻くまがまがしい霧のように思えたその大群も、ひとつまたひとつと分断してゆけば、見慣れた漫画のページの上にある単語と変わらないものだった。

この一種の戦いは、実際には悪夢の中でのように一瞬の間に行われたのである。たとえば彼がカンのへりの上に、そこから始まる、あるいはそこで終わる無限の宇宙を見たとしても、彼自身は全くそのことを意識しなかった。彼は自分のもつ語彙のすべてをあげて、自分を呑みこもうとする得体の知れぬものを、片端から命名していったのだと、そういうふうに言うことも可能だろうが、その中にはまだ彼の意識下に眠っている未来の語彙までもが含まれていたのだ。

一個の未知の宇宙生物にもたとえられう言葉の総体が、一冊の辞書の幻想にまで収約したとき、彼の戦いは終わっていた。海はふたたび海という名のものに戻っておだやかにうねり、少年は手の中のコカコーラのカンの栓をぬき、泡立つ暗色の液体を一息に飲みほして、咳きこんだ。「コカコーラのカンさ」と彼は思った。一瞬まえにはそれは、化物だったのだ。

彼はからっぽになったカンをいつものように海へと投げるかわりに、踏みつぶした。はだしの足は多少痛んだけれども、かまわずに何度も何度もぺちゃんこになるまで踏んだ。彼自身はその奇妙な経験をむしろ恥じていて、それを他人に伝えようなどとは考えもしなかったし、またそこから何かを学ぶということもなかった。その日から数十年をへて、年老いた彼が死の床に横たわっているとき、なんの脈絡もなくこの出来事を思い出すとしても、それは他のあらゆる思い出とおなじく、すでにとらえられることの難しい一陣の風のようなものに変質してしまっているのだろうが、それ故にそれはまた、失われつつある五感とはべつの感覚を刺激して、彼をおびやかすにちがいない。

その朝、少年は足元の踏みつぶされたコカコーラのカンを見下ろして、ただの一言、「燃えないゴミ」と呟いたにすぎなかった。

                                           「 コカコーラ・レッスン 」

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