しばらくその様子を見ていたが、少女の動きは失笑を買う愚かな動きにしか映らなかった。水平線を行くタンカーに手旗の信号が届くとは思えなかったし、かりに届いたとしてこの少女に返事を送る暇な乗組員がいるとも思えなかった。
彼は浜辺に腰を下ろし、監視台を見上げた。彼女の真剣さに次第に引きつけられ、口許に力が入っていく。旗は瞬間空中に静止したかと思うと引き戻されそれから再び力強く空高く押し出された。彼の眼球は手旗の動きをいつしか追いかけていた。新体操を見ているようなリズミカルな躍動と規則正しい美が彼を心地よくさせる。青空に舞う手旗の赤と白の鮮やかな動きは彼の荒れた精神に何か優しい信号を送ってきた。彼女が送る信号の意味は分からなかったが、伝えようとする意思の強さは明快だったし、そういう生の力は彼が元来持ち合わせてはいないもので、不思議に興味が湧いた。
船が水平線の先に消えた後、やっと少女は監視台から下りてきた。彼は立ち上がり、砂を払い、何を伝えようとしているの、と質問をした。すると少女は一点の曇りもない顔で、船長、応答願います、わたしはマユ、十六歳、この浜辺の監視員です、と言った。同時に彼女の口許は緩み、歯に光が跳ねた。監視員だって? 少女の馬鹿げた思い込みに呆れながらも、やけに自信に満ちて言うものだから、からかいたくなる。何を監視してんだ、聞き返すと、少女は、この浜辺の安全、と微笑みながらもはっきりと告げた。
「 千年旅人 」
既に外は白みはじめている。戸をしめ中庭に出ると目をさました痩せた牛が感情のない目で彼をみつめ、先に立ってのそのそと出ていった。昼には塔からひびくイスラムの詠唱の声とリクシャーや流れる渦のような人間の溢れる通りも、まだ静まりかえり、店々はペンキの剥げた戸をかたく閉じて無人の撮影所の町のようだった。動いているのは野良犬の群と路の真中にゆっくりと起きる牛だけ。かすかな涼しさが大気のなかにまだ残っている。やがて強烈な光が照りつけるであろう通りを右に折れ、左に曲り、湿気と汚猥の路を大津は歩きまわった。彼が探すのは、路のどこか片隅で艦喘のようにうずくまり、喘ぎながら死を待っている行き倒れを見つけるためだった。彼等は人間の形をしながら人間らしい時間のひとかけらもなかった人生で、ガンジス河で死ぬことだけを最後の望みにして、町にたどりついた連中である。
油虫の居場所を見つけるように大津は彼等がこの町のどんな場所で倒れているかを本能的に知っていた。それはいつも人眼の届かない細い抜け道の、僅か壁の間から外の光が洩れているような場所だった。息を引きとるまで人間はそんな光を最後の頼りのように求めるものなのだ。
大津のはいたチャッパルは汚水と犬の糞のこびりついた石畳をふみ、立ちどまった。足もとで壁に凭れた老婆が大津をじっと見あげていた。さきほど彼を眺めて歩き出した牛の眼と同じような、感情も失せた眼だった。肩が喘いでいる。しゃがみこんだ大津は肩にさげた袋からアルミコップと水を入れた瓶を出した。
「パーニイ、パーニイ(水、水)」
と彼は老婆に優しく言った。
「アープ、メーラー、ドースト、ヘイン(わたし、あなたの友達だ)」
彼女の小さな口にアルミのコップをあて、少しずつパーニイを流しこんだが、水はあごを濡らして体を包んでいる布を汚しただけだった。彼女は弱い声で呟いた。
「ガンガー(ガンジス河)」 と。
ガンガーと言って、彼女の眼にこの時、哀願の色がうかび、やがてその眼から泪が流れていった。
「タビーヤット、ハラーブ、ヘイ(気分が悪いですか)」と大津は大声を出して、うなずいた。
「コーイー、バート、ナヒン(心配いりません)」
紐をあみ合わせて作った印度風の嚢を袋から出し、それで彼女の小さな体を包み、背におぶった。
「ガンガー」
と彼の肩に全身をあずけ同じ言葉を泣き声のようにくりかえす老婆に、
「パーニー、チャーヒエー(水が飲みたいですか)」
と答え、大津は歩き出した。この時ようやく町に朝の光がさしはじめたがそれはまるで、やっと神が人間の苦しみに気づいたかのようだった。店は戸をあけ、牛や羊の群が鈴音を鳴らして、路を横切った。日本とちがってここでは誰一人、老婆を背負った大津をふしぎそうに見る者はいない。
この背にどれだけの人間が、どれだけの人間の哀しみが、おぶさってガンジス河に運ばれたろう。大津は汚れた布で汗を拭き、息を整えた。その人間たちがどんな過去を持っているか、行きずりの縁しかない大津は知らない。知っているのは、彼等がいずれもこの国ではアウト・カーストで、見捨てられた層の人間たちだ、ということだけだ。
陽がどのくらいのぼったかは首や背にあたる陽光の加減でよくわかる。
(あなたは)と大津は祈った。(背に十字架を負い死の丘をのぼった。その真似を今、やっています)火葬場のあるマニカルニカ・ガートでは既にひとすじの煙がたちのぼっている。(あなたは、背に人々の哀しみを背負い、死の丘までのぼった。その真似を今やっています)
「 深い河 」
その駅はいくつもの地下鉄路線が乗り入れしていて、ぼくの使った線は新線だったのでホームは一番深いところにあった。したがって地上への連絡は昇りと下りが交互に隣合わせになった四基のエスカレーターを利用することになっていた。
僕はゆるめたネクタイが重たすぎて首を垂れるような気分で、俯いて、昇りエスカレーターに乗った。緩慢な動きに身をまかせ何気なく明るい頭上を見上げたとき、右側を降りてくるエスカレーターにいましも乗り込む二人連れに気づいた。一人は真っ赤な服を着た枝里子で、隣に口髭をたくわえた四十がらみのひと目でファッション業界人とわかるグレイのスーツ姿の男が立っていた。僕たちの間には三十メートルぐらいの距離があったが、その間には誰もいなかった。枝里子もすぐに僕にきづいた。いつものように疑っと僕に定まって動かない視線がだんだん近づいてくる。枝里子の姿をこんな角度から見るのははじめてだったが、顎の線などはロートレックの完全なる曲線を目の当たりにするような精巧さだった。彼女は僕の会社に来る時には見たことがないような濃い人工的な化粧をほどこしてもいた。
困憊の態の僕は意外なところで枝里子と遭遇したことに少し動揺してしまっていた。分厚いコピー用紙の束やテープレコーダー、オートマチックカメラや何種類かのノートを突っ込んで不恰好にふくらんだ大きなカバンをくたびれた背広の肩に吊るし、ぼんやりと上方へ脂汗の浮いた顔を向けた若い勤め人の姿が、いま枝里子の瞳の中に映っていると思った途端、僕はつい視線を逸らし下を向いてしまったのだ。しかし同時に、僕のような関わりのない人間にまでどこか引け目を感じさせる枝里子の美しさに、ある種の憤りのようなものが胸に生じるのを感じた。いつも相手の顔をまともに見据えて平気にしているその態度はやはり不躾というものだ。ぼくは目を上げた。
視線の中に白く飛び込んでくるものがあった。
それはエスカレーターの黒いゴムの手すりに乗った枝里子の右掌だった。形のいいほっそりとした指と薄いエナメルのマニキュアを塗った爪が光って見える。僕は枝里子の手から肩、喉元、顔へと意識的にゆっくりと視線を廻らせた。自分を見下ろす枝里子の眼をできるだけ何の感情も込めずに見返す。それから互いに近づいていくまでのおそらく十数秒はひどく長い時間に思われた。そして枝里子と並んだ瞬間、僕は自分の手を三十センチほどの間隔をおいて逆方向に流れる手すりの上の彼女の掌へとのばした。枝里子の手はとっさに離れようとした。が、僕はそれを押さえつけた。そして力を込めて、その驚くほど柔らかな掌を握りしめた。
手を放して枝里子たちが行き違ったあと、隣の男が枝里子に「いまのなんなの」とすっ頓狂な甲高い声をあげるのが聞こえた。
「僕のなかの壊れていない部分」