そこでまったく偶然に枝里子と出くわしたのだ。
その駅はいくつもの地下鉄路線が乗り入れしていて、ぼくの使った線は新線だったのでホームは一番深いところにあった。したがって地上への連絡は昇りと下りが交互に隣合わせになった四基のエスカレーターを利用することになっていた。
僕はゆるめたネクタイが重たすぎて首を垂れるような気分で、俯いて、昇りエスカレーターに乗った。緩慢な動きに身をまかせ何気なく明るい頭上を見上げたとき、右側を降りてくるエスカレーターにいましも乗り込む二人連れに気づいた。一人は真っ赤な服を着た枝里子で、隣に口髭をたくわえた四十がらみのひと目でファッション業界人とわかるグレイのスーツ姿の男が立っていた。僕たちの間には三十メートルぐらいの距離があったが、その間には誰もいなかった。枝里子もすぐに僕にきづいた。いつものように疑っと僕に定まって動かない視線がだんだん近づいてくる。枝里子の姿をこんな角度から見るのははじめてだったが、顎の線などはロートレックの完全なる曲線を目の当たりにするような精巧さだった。彼女は僕の会社に来る時には見たことがないような濃い人工的な化粧をほどこしてもいた。
困憊の態の僕は意外なところで枝里子と遭遇したことに少し動揺してしまっていた。分厚いコピー用紙の束やテープレコーダー、オートマチックカメラや何種類かのノートを突っ込んで不恰好にふくらんだ大きなカバンをくたびれた背広の肩に吊るし、ぼんやりと上方へ脂汗の浮いた顔を向けた若い勤め人の姿が、いま枝里子の瞳の中に映っていると思った途端、僕はつい視線を逸らし下を向いてしまったのだ。しかし同時に、僕のような関わりのない人間にまでどこか引け目を感じさせる枝里子の美しさに、ある種の憤りのようなものが胸に生じるのを感じた。いつも相手の顔をまともに見据えて平気にしているその態度はやはり不躾というものだ。ぼくは目を上げた。
視線の中に白く飛び込んでくるものがあった。
それはエスカレーターの黒いゴムの手すりに乗った枝里子の右掌だった。形のいいほっそりとした指と薄いエナメルのマニキュアを塗った爪が光って見える。僕は枝里子の手から肩、喉元、顔へと意識的にゆっくりと視線を廻らせた。自分を見下ろす枝里子の眼をできるだけ何の感情も込めずに見返す。それから互いに近づいていくまでのおそらく十数秒はひどく長い時間に思われた。そして枝里子と並んだ瞬間、僕は自分の手を三十センチほどの間隔をおいて逆方向に流れる手すりの上の彼女の掌へとのばした。枝里子の手はとっさに離れようとした。が、僕はそれを押さえつけた。そして力を込めて、その驚くほど柔らかな掌を握りしめた。
手を放して枝里子たちが行き違ったあと、隣の男が枝里子に「いまのなんなの」とすっ頓狂な甲高い声をあげるのが聞こえた。
「僕のなかの壊れていない部分」
その駅はいくつもの地下鉄路線が乗り入れしていて、ぼくの使った線は新線だったのでホームは一番深いところにあった。したがって地上への連絡は昇りと下りが交互に隣合わせになった四基のエスカレーターを利用することになっていた。
僕はゆるめたネクタイが重たすぎて首を垂れるような気分で、俯いて、昇りエスカレーターに乗った。緩慢な動きに身をまかせ何気なく明るい頭上を見上げたとき、右側を降りてくるエスカレーターにいましも乗り込む二人連れに気づいた。一人は真っ赤な服を着た枝里子で、隣に口髭をたくわえた四十がらみのひと目でファッション業界人とわかるグレイのスーツ姿の男が立っていた。僕たちの間には三十メートルぐらいの距離があったが、その間には誰もいなかった。枝里子もすぐに僕にきづいた。いつものように疑っと僕に定まって動かない視線がだんだん近づいてくる。枝里子の姿をこんな角度から見るのははじめてだったが、顎の線などはロートレックの完全なる曲線を目の当たりにするような精巧さだった。彼女は僕の会社に来る時には見たことがないような濃い人工的な化粧をほどこしてもいた。
困憊の態の僕は意外なところで枝里子と遭遇したことに少し動揺してしまっていた。分厚いコピー用紙の束やテープレコーダー、オートマチックカメラや何種類かのノートを突っ込んで不恰好にふくらんだ大きなカバンをくたびれた背広の肩に吊るし、ぼんやりと上方へ脂汗の浮いた顔を向けた若い勤め人の姿が、いま枝里子の瞳の中に映っていると思った途端、僕はつい視線を逸らし下を向いてしまったのだ。しかし同時に、僕のような関わりのない人間にまでどこか引け目を感じさせる枝里子の美しさに、ある種の憤りのようなものが胸に生じるのを感じた。いつも相手の顔をまともに見据えて平気にしているその態度はやはり不躾というものだ。ぼくは目を上げた。
視線の中に白く飛び込んでくるものがあった。
それはエスカレーターの黒いゴムの手すりに乗った枝里子の右掌だった。形のいいほっそりとした指と薄いエナメルのマニキュアを塗った爪が光って見える。僕は枝里子の手から肩、喉元、顔へと意識的にゆっくりと視線を廻らせた。自分を見下ろす枝里子の眼をできるだけ何の感情も込めずに見返す。それから互いに近づいていくまでのおそらく十数秒はひどく長い時間に思われた。そして枝里子と並んだ瞬間、僕は自分の手を三十センチほどの間隔をおいて逆方向に流れる手すりの上の彼女の掌へとのばした。枝里子の手はとっさに離れようとした。が、僕はそれを押さえつけた。そして力を込めて、その驚くほど柔らかな掌を握りしめた。
手を放して枝里子たちが行き違ったあと、隣の男が枝里子に「いまのなんなの」とすっ頓狂な甲高い声をあげるのが聞こえた。
「僕のなかの壊れていない部分」
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