既に外は白みはじめている。戸をしめ中庭に出ると目をさました痩せた牛が感情のない目で彼をみつめ、先に立ってのそのそと出ていった。昼には塔からひびくイスラムの詠唱の声とリクシャーや流れる渦のような人間の溢れる通りも、まだ静まりかえり、店々はペンキの剥げた戸をかたく閉じて無人の撮影所の町のようだった。動いているのは野良犬の群と路の真中にゆっくりと起きる牛だけ。かすかな涼しさが大気のなかにまだ残っている。やがて強烈な光が照りつけるであろう通りを右に折れ、左に曲り、湿気と汚猥の路を大津は歩きまわった。彼が探すのは、路のどこか片隅で艦喘のようにうずくまり、喘ぎながら死を待っている行き倒れを見つけるためだった。彼等は人間の形をしながら人間らしい時間のひとかけらもなかった人生で、ガンジス河で死ぬことだけを最後の望みにして、町にたどりついた連中である。
油虫の居場所を見つけるように大津は彼等がこの町のどんな場所で倒れているかを本能的に知っていた。それはいつも人眼の届かない細い抜け道の、僅か壁の間から外の光が洩れているような場所だった。息を引きとるまで人間はそんな光を最後の頼りのように求めるものなのだ。
大津のはいたチャッパルは汚水と犬の糞のこびりついた石畳をふみ、立ちどまった。足もとで壁に凭れた老婆が大津をじっと見あげていた。さきほど彼を眺めて歩き出した牛の眼と同じような、感情も失せた眼だった。肩が喘いでいる。しゃがみこんだ大津は肩にさげた袋からアルミコップと水を入れた瓶を出した。
「パーニイ、パーニイ(水、水)」
と彼は老婆に優しく言った。
「アープ、メーラー、ドースト、ヘイン(わたし、あなたの友達だ)」
彼女の小さな口にアルミのコップをあて、少しずつパーニイを流しこんだが、水はあごを濡らして体を包んでいる布を汚しただけだった。彼女は弱い声で呟いた。
「ガンガー(ガンジス河)」 と。
ガンガーと言って、彼女の眼にこの時、哀願の色がうかび、やがてその眼から泪が流れていった。
「タビーヤット、ハラーブ、ヘイ(気分が悪いですか)」と大津は大声を出して、うなずいた。
「コーイー、バート、ナヒン(心配いりません)」
紐をあみ合わせて作った印度風の嚢を袋から出し、それで彼女の小さな体を包み、背におぶった。
「ガンガー」
と彼の肩に全身をあずけ同じ言葉を泣き声のようにくりかえす老婆に、
「パーニー、チャーヒエー(水が飲みたいですか)」
と答え、大津は歩き出した。この時ようやく町に朝の光がさしはじめたがそれはまるで、やっと神が人間の苦しみに気づいたかのようだった。店は戸をあけ、牛や羊の群が鈴音を鳴らして、路を横切った。日本とちがってここでは誰一人、老婆を背負った大津をふしぎそうに見る者はいない。
この背にどれだけの人間が、どれだけの人間の哀しみが、おぶさってガンジス河に運ばれたろう。大津は汚れた布で汗を拭き、息を整えた。その人間たちがどんな過去を持っているか、行きずりの縁しかない大津は知らない。知っているのは、彼等がいずれもこの国ではアウト・カーストで、見捨てられた層の人間たちだ、ということだけだ。
陽がどのくらいのぼったかは首や背にあたる陽光の加減でよくわかる。
(あなたは)と大津は祈った。(背に十字架を負い死の丘をのぼった。その真似を今、やっています)火葬場のあるマニカルニカ・ガートでは既にひとすじの煙がたちのぼっている。(あなたは、背に人々の哀しみを背負い、死の丘までのぼった。その真似を今やっています)
「 深い河 」