増えすぎた猫やマナーのない飼い主の捨て猫が野良化し、「ノラネコ」になって、いたる所にうろついている。そして、さらに野生化した猫は「ノネコ」になっていく。
ノラネコは民家に侵入し残飯をあさったり、ノネコは畑の作物を荒らしたり、そして奄美の希少動物もノネコの被害に遭っている。あるいはその「ノラネコ」「ノネコ」からの病原菌とか・・ かなり根深く深刻な問題なのだ。
名瀬の街を走っていても、かなり野良が徘徊しているのがわかる。
そんな野良猫たちだが、なかにはお行儀のいい猫ちゃんがいて、なんとシマの野良猫は横断歩道を渡るのだ。交通量の多い大きな道路を横切る猫はさすがにいないが、わりと車の少ない小さな道路、猫ちゃんは悠々と横断歩道を渡っていた・・
ちょうどお客さんを乗せていたので訊いてみると、「ああ、時々いますよ」と、笑っていた。
横断歩道を渡る猫・・たまたまその時それを発見したのではなく、この4ヶ月の間に少なくとも5回はそんな猫ちゃんたちを見てきた。確率にすると20%くらいだろうか。この数字が多いか少ないかは微妙だが・・ なんとも人間よりもマナーのある猫たちである。
ネパールに行ったとき、カトマンズの街には「野良牛」が徘徊していて、交通量の多い道を牛たちは悠然と横切っていた。ドライバーたちは当たり前のように「野良牛」に道を譲っていた。この街では人と牛が共存しているのだ。
「ノラネコ」と「シマッチュ」、あの街のようにいつか共存できますように。
4年前に書いた日記を読み返してみる。おでもり山の麓の畑(母はゴスコの畑と言っているが)の事を書いた日記だ。その日記の最後に「何かの暗示か・・」と確かに書かれていた。
その出来事から2年後にぼくは25年ぶりに龍郷に帰り、ゴスコの畑に建てられた電波塔の前に立った。畑までの道はあの頃とは比べ物にならないくらいに整備され、車でたやすく行くことができた。畑は思ったほど荒れてはなかったが、たくさんの草の中から背の低い向日葵が何本も生えていて、隅の方にはこの畑に不似合いな電波塔がひっそりと聳えていた。
そして、その2年後の今、ぼくは休みのたびに母と一緒にここへ来て、2年前よりも明らかに荒れ果てたこの畑の草刈りをしている。土が案外やわらかく、ある程度の草は簡単にぬけるのだが、地面中になんかの根っこが蔓延って、それを根本からひっこ抜いていく。すすきも大きいものになると容易にはぬけず、鍬を入れるか根本から釜で切っていく。
母との共同作業はなかなか楽しいものがある。二人とも話もしないでもくもくと作業を続ける。たんたんと草や土と格闘する。一段落つくと、抜いた草の上に座り込み、なにも喋らずペットボトルの水を飲み、休憩する。そして、また静かに土と格闘しにいく。そんな二人だけの作業がなんだかとても楽しく感じる。
刈り取られ、積み上げられたススキの山に乗り、白い電波塔を見上げて考える。
100年の時を越え、安千代は電波に乗って、このゴスコから東京にいたぼくを探しだし、ここまで導いてくれた。
4年前のあの日の出来事。今日この日この時の暗示だったのだろうか。
あの日からは想像さえできなかった僕がここにいる。
今、母ちゃんといっしょに僕はここに立っている。
シマに帰って3ヶ月が経つ。相変わらず母との生活はぎくしゃくしているし、馴染めないし、話もぎこちない。しかし、ふと気がつくと、いつの間にか『とても幸せな気持ち』になっている自分がいた。
トゴラで母が寝ていて、オモテで自分が寝ている。ああ、いま母ちゃんと一緒に寝ているんだ・・と思うと、とても幸せな気持ちになっている自分がいる。
母のために特に何かやっているわけではない。楽しく話をしているでもない。ただ一緒に生活しているだけなのに、とても幸せな気持ちに満たされた自分がいる。
朝6時半に起きてシャワーを浴びにいく。まだ寝ていた母がその足音を聞いて目を醒まし、いつも、今日は何時に出るの?と聞いてくる。ぼくがシャワーを浴びている間に朝食の準備をはじめる。家を出る時は、帰りは何時?運転気つけてね、といっていつも送り出す。夜10時過ぎに帰ると、すでに寝ていた母は目を醒まし、夕御飯は?といつも聞いてくる。ぼくがもう食べてきた、と応えると、母は静かに眠りにつく。
そんななんでもない同じことの繰り返しばかりの母との毎日の生活がとても幸せに感じる。
ヨコ乗り乗務ながら、本日初乗務を果たす。
『流し』はやっぱりお客さんが乗らない。
いくら走っても手をあげる人がいない。
というか市内には人さえまばらな状態だ。
昔は、古見本道り、銀座通りや本通りには、人が溢れていて、ぼくら龍郷っちゅからしてみたら名瀬は大都会だった。
高校時代にバス通学をしていた時期があった。帰りのバスを待つ間「岩崎バス」の車庫から本通りを歩き、アーケード街をブラブラ行ったり来たりし、「寿屋」に寄り、「じんのうちレコード」に入って、「楠田書店」で立読みし、車庫の近くのお店でたこ焼きを食ったり、意味もなくぶらついていた。
とにかく人が多く、いつも活気があり、エネルギーに満ちていた。
今は岩崎バスも奄美交通もなくなって『しまバス』になり、寿屋もなくなり、楠田書店は
移転し、じんのうちレコードとたこ焼き屋さんだけが昔の面影を残したままだった。
市内に5ヶ所の無線の待機所があるが、そこで無線待ちを兼ねて休憩をとる。
ヨコ乗りの先輩指導員も、昔の活気がうそのように今は人がいないと嘆いていた。とにかく根気良く流し、そして待機所で休憩して無線待ち。それを繰り返していれば、そのうち、いいお客さんに当たるとのこと。
と言った矢先に車に無線が入る。慌てて車にもどり、メデタイ第一号のお客様の元へと向かう。第一号様は80歳くらいのおばあちゃん。近くのスーパーまで。シマ方言でいろいろとおしゃべりをし、あっと言う間に目的地のスーパーに到着。ばっちゃんは下車し、深々とこちらに頭を下げる。ありがとう!ばっちゃん。
その後、また流していたら30分ほどで再び無線が入った。
○○病院へと向かう。第二号様は、なんと先ほど乗せたばっちゃんの旦那さんだった。さすがはシマ!狭すぎ・・。先ほど奥さん乗せましたよーと言うと「はげはげー」と喜んでいた。
病院からさっき乗せたばっちゃんの家へと向かう。が、じっちゃんが病院に傘を忘れたとのことで、また病院へとUターン。そして再び自宅へと向かう。
自宅へ着くと、後ろから着いてきた同じOタクシーの車もすぐ後ろで停車した。そこから降りてきたのは、なんと先ほど乗せたばっちゃんだった・・。どうやらさっきのスーパーからの買い物帰りなのだろう。
じっちゃんとばっちゃんと僕と先輩指導員と後ろの運転手と、いっしょになって「はげはげー」の合唱になった。シマ狭すぎ・・
その後、待機所で何件か無線を受けたが、ほとんどがお年寄りのおばあちゃんやおじいちゃんばかりだった。でも、無線は結構入るもんだとひとまず安心する。
それにしても『流し』で人が乗らない。と、指導員にぼやいていたら、図書館前でおばあちゃんが手を挙げた。流しのお客様第一号です! 郵便局前の病院まで送っていきました。ありばとうおばあちゃん。なるほど、流しでもお客さんがちゃんといることに、またもやひと安心する。
要は『根気と忍耐』、そしてタイミングさえ合えば無線も入るし手を挙げるお客さんも出てくる。運をつかむのも自分の努力次第で、とにかく動かないことには運さえも逃げてしまう。それは東京でもシマでも変わらないという、あたりまえなことを再確認させられた。
今日一日はかなり貴重で濃い一日になった。