本日よりOタクシー初出社。
二日間の社内研修を経て、ヨコ乗り実車、その後いよいよ
シマでのひとりタクシーデビューとなる。
さてさてどうなることやら・・
しかし、シマの給料は驚くほど安い・・
東京のタクシー会社の歩合は、だいたい60%前後だったが、
ここでは43~48%位、そのぶん基本給が高いかと思えば、
それもあってないようなもん。
東京のバカ高かった家賃がなくなったからよかったものの・・
ひさしぶりに晴れました。
でも相変わらずティダの洗礼はまだ受けてません。
あと半年以上の辛抱です。
シマに帰ってもう一週間が経つ。
最初の二日間は晴れて夏のような陽気だったが、その後は、ずっと雨がふったり曇ったりのあいにくの天気が続いている。11月なのでしかたないのだが、去年の帰郷時も今回も、まだ、あのカッとしたティダの洗礼を受けていない。シマに帰った実感がまだ沸いてこないのはそのせいなのだろう。
家の掃除や、就職活動、保険やら何やらの手続き、母の通帳整理、等々同時進行でやってきて、あっという間の一週間だった。
今日、内定していたOタクシーに正式に返事をし、いよいよ来週月曜からの勤務となる。
母は相変わらずトゴラでテレビを見ている。
そして、飽きることなく古いアルバムをめくっている。
昨日は兄と一緒に、母を連れて2ヶ月に一回の病院へ行ってきた。
この病院、かつて父が入院していた思い出深い病院だ。
母はもうすっかり慣れた様子で、「トイレ行ってくる」と、車を降りたらすぐに、すたこらさっさと病院の中へ。兄とぼくはゆっくりと後を追う。
『もの忘れ外来』というのがあることを初めて知った。
受付を終えると、すぐに呼び出しがあり、最初に「体重測定」などをして、その後に付き添って担当医との「問診」を行う。
近況や身体的なこと、困った事などないか、を担当医が丁寧に聞いてゆく。もう慣れたもんだと思っていた母は、やっぱりいつまでたっても『病院』というものには緊張するらしく、恐々と応えている。「最近イライラすることはありませんか?」「怖い夢などはみませんか?」という質問に、「いやー、そんなには・・」としか応えない。ぼくは隣で、こんなんでいいのかなあ・・、と思いながらも問診を終える。
家に帰ると台所の掃除をする。
流しを開けて、山のように積まれた使われてない食器や鍋やゴミを出す。
母が様子を見にきて手伝おうとする。「ひとりでやるから」と追い出すが、しばらくするとまたすぐにやってくる。しかたないので食器洗いを母に手伝ってもらう。よくもこれだけ放っておけるもんだと思うくらい流しの中は汚れている。母は出された食器を風呂場へ運び、「よっこいっしょ」と腰をおろし食器を洗う。
ぼくは流しの中を雑巾でふいていく。ゆっくりゆっくりふいてゆく。
鍋やどんぶりがまだかなり残っている。割れた食器で指を切った。血はすぐには出なかった。じわりじわりと赤い点がふくらむ。それが少しづつ丸くなっていき、大きく膨らむ。そして静かに筋になって流れていった。ぼくは、滴りおちる血をぼんやり見ていた。母が「はっげー!」と言いながらやってきた。ぼくの指の血を舐めて、そして、傷テープを貼ってくれた。
仕事はわりとスムーズに決まりそうだ。
順調にいけば、週明けの月曜から勤務できると思う。
東京でもやっていた『タクシー』、
でも、シマのタクシーはかなり厳しいらしい。
だれに訊いても同じことを言う。
まあどうにかなるさ。
ぼくの家は龍郷のいちばん端の方にある。
そして教会は反対方向の端の方にある。
母は毎朝、村端の自分の家から村端の教会まで歩いて通っている。
それが唯一の生きがいのように。
そのおかげで足腰も弱らずに、よたよたながらもちゃんと歩けるのだろうと思う。
母はいつもトゴラでぼーっとテレビを見ている。
観てるのではなく見ているだけだ。
母との接し方がいまいちわからず、いまだにぎこちない。
30年近く別々に暮らしていたのだから、しかたないと言えばしかたないのだが。
元々ふたりともあまり喋るほうではなかった。
ふたりとも無口な方で、会話もあまりはずまない。
姉に聞いたら「母ちゃんは、黙っている『間』は全然気にしないから、別に喋らなくてもいいんじゃない?」と言う。
母はまだ痴呆症ではないが物忘れが激しく、昔のことは良く覚えているが、現在進行形のことをよく忘れるみたいだ。そして同じ事を何度もくりかえし聞いてくる。「病院は明日だっけ?」とか「玉子焼きと目玉焼き、どっちにする?」とか「仕事は決まったかい?」とか、何度も同じことを聞いてくる。
料理もあまりしなくなった。玉子焼きとか焼き魚とか、かんたんな炒め物とか、すぐ出来るものは作るが、手の込んだ揚げ物とか煮物とかはもう作らなくなった。
母は相変わらずトゴラでぼーっとテレビを見ている。
老いは確実にやってきている。
そしてその先も見据えなければならない。
母が年とることは昔は考えてもいなかった。
母ちゃんは母ちゃんのままで、いつまでも母ちゃんだった。
母ちゃんは相変わらずトゴラでテレビを見ている。
そんな母を見ててなんだか悲しくなってきた。
そして、母のことを悲しく思う自分自身に悲しくなってきた。
勉強部屋の掃除をしていたら、たんすの中からかなり古い、ほこりをかぶったアルバムが何冊も出てきた。ほこりを拭きとり一枚一枚めくっていく。あまりに古くなくかしい写真にしばらく思考が停止してしまった。それは、これまで散々親不孝をしてきた自分への、天からの唯一のプレゼントなのだろうか。
瞬時にあのころにタイムスリップする。
小学校の入学式、運動会、となり組との浜オレ、八月踊り、くずれ浜での潮ひがり、叔母や従兄弟たち、てるゆきやまこと、三輪車に乗ったぼく、兄の結婚式、姉の中学時代。
それだけではない。母の結婚前の写真、父の若い頃の写真、父の兄弟たち、ばあちゃんの若い頃、ばあちゃんの友達たち、叔母のお母さん、となりのいえおばんさん、まさこおば、たかひろ兄、りことなぎさ、しげこちゃん、いっこちゃん、
次から次に、ページをめくっていくたびに母と父の歴史がよみがえる。そして自分の歴史も。
トゴラから母を呼んできて、山のように積み上げたアルバムを見せた。
母は一番上に乗っていたアルバムの1ページ目をめくった。すると、いきなり「はっげー!!」と叫んで慌ててトゴラに戻った。『はっげー! 』とは、感動したり何か激しく気持ちの動揺した時に、思わず自然に出てくるシマのの方言だ。
何事かと思ったらメガネを持ってきたのだ。
メガネを掛けた母は「はっげー!あっげー!!」と繰り返し、食い入るように写真を見つめ続け、「これは隣のいえおばさん、これはまっちゃん、これは父ちゃんの若いとき」と息せき切ったように、ひとりひとりの説明をはじめた。
目を凝らして古い写真をひとつひとつ丁寧に見ていく母。
母ちゃんもあの頃にタイムスリップしているのかなあ
それにしても、ついさっきの事はすぐに忘れるのに、大昔のことはこんなによく覚えているもんだと感心する。「この種オロシで兄ちゃんが六調踊った」「この浜はくじら浜で途中で足を滑らせた」「学芸会でじゅんぎがペンギンやった」と、「はっげーー!!」と言いながら写真を見る母ちゃん。
いつまでもいつまでも写真を見続ける母ちゃん。
タイムスリッップしている母ちゃん。
そんな母ちゃんをみてて、また何だか悲しくなってきた。
そして嬉しくもなってきた。
龍郷の家はかなり古い。
とにかく古い・・
コンクリート造りの「オモテ」のある家はそうでもないが(と言っても古いが・・)、繋がってる「トゴラ」と台所のある木造の家の方が、かなり古くガタがきている。
台所の床はミシミシして柱や棚は油まみれ、風呂場の浴槽はつかってないらしく、ほこりや水垢で汚れたまま。母がかつて機織をしていた部屋は天井に穴があいている状態。もう使ってない機織器はホコリをかぶり、蛍光塔は消え、糸があちこちに散らばっている。
「トゴラ」はいつも母がテレビを見ながらくつろいでいる所。
この部屋だけは母は掃除をしているらしく、荷物が散乱していながら、わりときれいだ。むかしいた猫はもういない。母に訊くと「わからない」と言う。
「オモテ」と「トナリ」と「勉強部屋」・・
兄弟4人、この3畳ほどしかない「勉強部屋」で遊びむんかげしたりわじわじしたり、ひっきゃぶたりたまに勉強したりむじきられたりとぅらったりないたり、とにかく・・・・
柱に『ラジオたいそうカードさげ』とマジックで書かれていた。よく見ると柱にはいくつもの落書きがある。なんかの日付やウンコの絵、数字の羅列。ナイフかなんかで削った跡まで・・
あのころは、ぬぅんしゅま考えずに、それでも必死にいちにちいちにちを生きていた。全力ではしっていた。まんげて擦りむいた膝の血を舐め、雨に濡れてくつに溜まった泥水を頭からかぶり、木からわざと落ちて驚かせたり。
高校を卒業して兄がこの「勉強部屋」を、そしてこの家を出て行った。そのつぎに姉ふたりが出ていき、最後に「勉強部屋」はぼくひとりのものになった。
ぼくだけの勉強部屋になった。
ぼくだけのべんきょうべやになった。
そしてぼくもべんきょうべやを出ていった。
今、その部屋には蜘蛛の巣が張っている。古い布団がいくつも押しこまれ、ゴキブリの糞まみれの洋服ダンスがほこりをかぶっている。着なくなった洋服の入ったビニール袋、なにが入っているのかわからないダンボールの山。
ぼくだけのべんきょうべや
兄弟4人の勉強部屋
だれもいなくなった勉強部屋
母ちゃんの勉強部屋
だれもいないべんきょうべや
蜘蛛の巣だらけになった勉強部屋
どうしようか
まずは掃除からはじめようか
それともおもいでにひたろうか
ひっきゃぶろうか
とぅでなさぬぅ
3時過ぎに奄美空港に到着した。
去年1月に帰ったので、それほどの郷愁感はない。
あのとき感じた期待と失望、喜びと痛み、不安の中の満足感。それらの感情とはまったく異なる、相反した、今この胸のなかの黒く、うごめいているもの。それをどう表現したらいいのかわからない。
故郷のことをこれまでまったく顧みず、好き勝手に生きてきた。
いつの間にかもう故郷よりも東京での生活が長くなっていた。
好きなことしかやらず、嫌なことは避けてきた。
お金がなくなると簡単に借金し、それでも行き詰ると親兄弟に簡単に頼り、そのくせ山の追求のためとネパールまで行き、それが一番の誇りであると思い込み、ひとりよがりな人生は相手の心のなかまで入っていくのが怖く、表面上でしか付き合えない。愛想笑いをして相槌をうち、うんうんと頷きながらまったく人の中には入っていかなかった。「山は人生観を変える」そう、その時はね。全くもって僕の人生は変わらなかった。
夢
空を飛んでいた
小学校の上を
母が買い物帰りで家路についていた
大声で「かーちゃん!!」と叫んだが、母は気づかなかった
役場前で乗り換えのためバスを降りる。
役場がまだやってたので、ついでとおもい転入届の手続きを行う。ここには同窓が2人ほど勤めているはずだが、そんなに広くない室内、見渡しても見当たらない。新しい住民票をもらい、本日よりわたくし島の住人です。
バスの乗り方がいまいちわからず、ふたつほど乗りそびれて、家に着いたのが7時ごろ。
母が待ちくたびれてました。
母は今年で80。
去年よりも急激にガタがきていた。
遅すぎる親孝行。
あまりにも遅すぎた。
ただいま
かあちゃん
柱の時計がまた止まっていた。
ギィー ギィー
と、左右にあるふたつの螺旋をまいた。
長針をくるくる回して、7時15分にあわせた。
振子を指で軽くおした。
時計がしずかに動きだした。