ぼくの家は龍郷のいちばん端の方にある。
そして教会は反対方向の端の方にある。
母は毎朝、村端の自分の家から村端の教会まで歩いて通っている。
それが唯一の生きがいのように。
そのおかげで足腰も弱らずに、よたよたながらもちゃんと歩けるのだろうと思う。
母はいつもトゴラでぼーっとテレビを見ている。
観てるのではなく見ているだけだ。
母との接し方がいまいちわからず、いまだにぎこちない。
30年近く別々に暮らしていたのだから、しかたないと言えばしかたないのだが。
元々ふたりともあまり喋るほうではなかった。
ふたりとも無口な方で、会話もあまりはずまない。
姉に聞いたら「母ちゃんは、黙っている『間』は全然気にしないから、別に喋らなくてもいいんじゃない?」と言う。
母はまだ痴呆症ではないが物忘れが激しく、昔のことは良く覚えているが、現在進行形のことをよく忘れるみたいだ。そして同じ事を何度もくりかえし聞いてくる。「病院は明日だっけ?」とか「玉子焼きと目玉焼き、どっちにする?」とか「仕事は決まったかい?」とか、何度も同じことを聞いてくる。
料理もあまりしなくなった。玉子焼きとか焼き魚とか、かんたんな炒め物とか、すぐ出来るものは作るが、手の込んだ揚げ物とか煮物とかはもう作らなくなった。
母は相変わらずトゴラでぼーっとテレビを見ている。
老いは確実にやってきている。
そしてその先も見据えなければならない。
母が年とることは昔は考えてもいなかった。
母ちゃんは母ちゃんのままで、いつまでも母ちゃんだった。
母ちゃんは相変わらずトゴラでテレビを見ている。
そんな母を見ててなんだか悲しくなってきた。
そして、母のことを悲しく思う自分自身に悲しくなってきた。
勉強部屋の掃除をしていたら、たんすの中からかなり古い、ほこりをかぶったアルバムが何冊も出てきた。ほこりを拭きとり一枚一枚めくっていく。あまりに古くなくかしい写真にしばらく思考が停止してしまった。それは、これまで散々親不孝をしてきた自分への、天からの唯一のプレゼントなのだろうか。
瞬時にあのころにタイムスリップする。
小学校の入学式、運動会、となり組との浜オレ、八月踊り、くずれ浜での潮ひがり、叔母や従兄弟たち、てるゆきやまこと、三輪車に乗ったぼく、兄の結婚式、姉の中学時代。
それだけではない。母の結婚前の写真、父の若い頃の写真、父の兄弟たち、ばあちゃんの若い頃、ばあちゃんの友達たち、叔母のお母さん、となりのいえおばんさん、まさこおば、たかひろ兄、りことなぎさ、しげこちゃん、いっこちゃん、
次から次に、ページをめくっていくたびに母と父の歴史がよみがえる。そして自分の歴史も。
トゴラから母を呼んできて、山のように積み上げたアルバムを見せた。
母は一番上に乗っていたアルバムの1ページ目をめくった。すると、いきなり「はっげー!!」と叫んで慌ててトゴラに戻った。『はっげー! 』とは、感動したり何か激しく気持ちの動揺した時に、思わず自然に出てくるシマのの方言だ。
何事かと思ったらメガネを持ってきたのだ。
メガネを掛けた母は「はっげー!あっげー!!」と繰り返し、食い入るように写真を見つめ続け、「これは隣のいえおばさん、これはまっちゃん、これは父ちゃんの若いとき」と息せき切ったように、ひとりひとりの説明をはじめた。
目を凝らして古い写真をひとつひとつ丁寧に見ていく母。
母ちゃんもあの頃にタイムスリップしているのかなあ
それにしても、ついさっきの事はすぐに忘れるのに、大昔のことはこんなによく覚えているもんだと感心する。「この種オロシで兄ちゃんが六調踊った」「この浜はくじら浜で途中で足を滑らせた」「学芸会でじゅんぎがペンギンやった」と、「はっげーー!!」と言いながら写真を見る母ちゃん。
いつまでもいつまでも写真を見続ける母ちゃん。
タイムスリッップしている母ちゃん。
そんな母ちゃんをみてて、また何だか悲しくなってきた。
そして嬉しくもなってきた。