しかし、小さな男はまだこの寂しき読書倶楽部にうまく馴染めずにいた。あるいはもしかすると誰一人として馴染んでいないのかもしれないが、そこのところも小さな男は把握し切れていなかった。それでいいのではないか__と彼は一方でそう思っている。
それはたとえば、住み暮らす街にも同じことが言えた。彼はいま暮らしている街に越してきて六年あまり経つが、それでも街を知りつくしているとは言えない。馴染んでいるのかと訊かれれば「おそらく」としか答えようがなく、行きつけの店が何軒かあるものの、それで街と馴染んだことになるのかと考えてもよく分からない。六年住んでみたところで知らない事物はまだたくさんあるし、駅前からつづく商店街を行ったり来たりしても、見知った顔に出会うことはきわめて稀である。行きすぎる顔は知らない顔ばかり。が、そんな知らない人ばかりとすれ違い、不意に知らない店を見つけたり、知らない猫や知らない犬とその飼い主に出会ったりして、これといった用もなく行き当たりばったりに歩けるのがじつは居心地のいい街のような気がする。
__と、そんなことを考えながら、まさにあてもなく街を歩いていると、商店街のはずれにある開かずの踏切が行く手に立ちふさがるように見えてきた。ここはいつ行き当たっても「開かず」であり、知らない人たちが踏切によって遮断され、その向こうを知らない人たちを乗せた私鉄電車が、急行、準急、特急、快速、各停、回送、とフルコースで横切ってゆく。そして、そのさらに向こう側にやはりフルコースの通過を苦々しい顔で待ちつづける知らない人たちが思い思いの様子で立ち並んでいる。
その中に、小さな男は「あ」と、よく知った顔を見つけて声をあげた。それがまだ馴染めずにいる<読書倶楽部>の最古参__ジァンジァンのもぎり嬢__であったのに、驚いたというより、じわじわとゆるい笑いが湧き起こってきた。
彼女の名字は宮ナントカといったはずだが、どうしてもナントカの一文字が頭に入らず、つい皆が__彼女のいないところで__呼んでいる「ジァンジァンのもぎり嬢」というフレーズが彼女のすこし困ったような顔とかさなって頭に焼きついていた。
「ジァンジァン」とは、かつて渋谷公園通りの坂の途中にあった東京山手教会地下のライブハウスの名である。小さな男はかつて一度だけその小さな空間で芝居をみたことがあった。<倶楽部>に入会して間もないころ、彼女にそのときの記憶を話してみたところ、
「そうですか、そのとき私はまだもぎり嬢をやっておりました」
困ったような顔に少しだけ嬉しそうな表情をまじえてみせたのが、小さな男には微笑ましく印象深かった。もし、彼女の言うとおりなら、ひと昔まえの渋谷の片隅で、小さな男は彼女とすでにすれ違っていたわけだ。そして、いまもまたこうして開かずの踏切で__おそらく彼女は気づかないまま__ふたりは黙ってすれ違おうとしている。
彼女は踏切が開くのを待ちながら文庫本を読み、その様子からして、その「開かず」にすっかり慣れているように小さな男には見えた。
櫛の入ってないザンバラ頭で、片手で巧みに鼻をかみ、開いた頁から顔を上げることもなく、雲間から差しこんだ夕方の陽をあびて、やはりすこし困ったような顔で彼女はそこに立っていた。
いや、微動だにせずに文庫本を読みふける彼女の顔が、どことなく凛々しく見えたことを小さな男は忘れずにいようと思った。
__そして、人生はつづいてゆく。
その一行が、小さな男の頭のなかをわけもなく駆けめぐった。
「 小さな男*静かな声 」
それはたとえば、住み暮らす街にも同じことが言えた。彼はいま暮らしている街に越してきて六年あまり経つが、それでも街を知りつくしているとは言えない。馴染んでいるのかと訊かれれば「おそらく」としか答えようがなく、行きつけの店が何軒かあるものの、それで街と馴染んだことになるのかと考えてもよく分からない。六年住んでみたところで知らない事物はまだたくさんあるし、駅前からつづく商店街を行ったり来たりしても、見知った顔に出会うことはきわめて稀である。行きすぎる顔は知らない顔ばかり。が、そんな知らない人ばかりとすれ違い、不意に知らない店を見つけたり、知らない猫や知らない犬とその飼い主に出会ったりして、これといった用もなく行き当たりばったりに歩けるのがじつは居心地のいい街のような気がする。
__と、そんなことを考えながら、まさにあてもなく街を歩いていると、商店街のはずれにある開かずの踏切が行く手に立ちふさがるように見えてきた。ここはいつ行き当たっても「開かず」であり、知らない人たちが踏切によって遮断され、その向こうを知らない人たちを乗せた私鉄電車が、急行、準急、特急、快速、各停、回送、とフルコースで横切ってゆく。そして、そのさらに向こう側にやはりフルコースの通過を苦々しい顔で待ちつづける知らない人たちが思い思いの様子で立ち並んでいる。
その中に、小さな男は「あ」と、よく知った顔を見つけて声をあげた。それがまだ馴染めずにいる<読書倶楽部>の最古参__ジァンジァンのもぎり嬢__であったのに、驚いたというより、じわじわとゆるい笑いが湧き起こってきた。
彼女の名字は宮ナントカといったはずだが、どうしてもナントカの一文字が頭に入らず、つい皆が__彼女のいないところで__呼んでいる「ジァンジァンのもぎり嬢」というフレーズが彼女のすこし困ったような顔とかさなって頭に焼きついていた。
「ジァンジァン」とは、かつて渋谷公園通りの坂の途中にあった東京山手教会地下のライブハウスの名である。小さな男はかつて一度だけその小さな空間で芝居をみたことがあった。<倶楽部>に入会して間もないころ、彼女にそのときの記憶を話してみたところ、
「そうですか、そのとき私はまだもぎり嬢をやっておりました」
困ったような顔に少しだけ嬉しそうな表情をまじえてみせたのが、小さな男には微笑ましく印象深かった。もし、彼女の言うとおりなら、ひと昔まえの渋谷の片隅で、小さな男は彼女とすでにすれ違っていたわけだ。そして、いまもまたこうして開かずの踏切で__おそらく彼女は気づかないまま__ふたりは黙ってすれ違おうとしている。
彼女は踏切が開くのを待ちながら文庫本を読み、その様子からして、その「開かず」にすっかり慣れているように小さな男には見えた。
櫛の入ってないザンバラ頭で、片手で巧みに鼻をかみ、開いた頁から顔を上げることもなく、雲間から差しこんだ夕方の陽をあびて、やはりすこし困ったような顔で彼女はそこに立っていた。
いや、微動だにせずに文庫本を読みふける彼女の顔が、どことなく凛々しく見えたことを小さな男は忘れずにいようと思った。
__そして、人生はつづいてゆく。
その一行が、小さな男の頭のなかをわけもなく駆けめぐった。
「 小さな男*静かな声 」
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