今年一番目のお客さん。
おばあちゃん二人で五反田から高輪プリンスホテルまで、
「おつりはいいよ、お年玉で取っといて」
二番目のお客さん。
カップルが大井町からホテルマリオットまで、
「お正月だからおつりはいいです」
三番目のお客さん。
ホテルマリオットから品川駅まで若いお兄さん、
「あ、おつりはいいです」
今年はいいことありそうです。
PR
三日目 石巻~気仙沼~陸前高田
気仙沼に着いたのはよく晴れた寒い日だった。
ここからはやはりバスに乗り換えなければならない。このとぎれとぎれの路線をバスで運行させる形式をBRTといい、この地域ではもう定着しているらしい。「奇跡の一本松」までの切符を買った。

バスを降りた
風が強い
なんにもない
唖然とする
だだっ広いそのなんにもない土地には、工事用の長いパイプ状の橋桁と巨大な土の山と大型クレーンしかなく、その広原に強風による土ほこりが舞っている。
打ちのめされた
2011年3月11日14時46分、ここ陸前高田は壊滅的被害に遭った。
その同時刻、ぼくは東京で一人の女性客を乗せていた。その女性客は携帯電話で「泣かないでひろしちゃん・・」といい電話を切ったあと自分が泣き出した。ぼくはいまでもその光景が目に焼きついている。
もうこれ以上行かなくていいだろう。
あした東京へ帰ろう。
四日目 仙台~東京
きのうその日のうちに仙台に戻り、また初日のカプセルホテルに一泊。
さて、今日はどうやって帰ろうか。
来たときと同じ高速バスで帰ろうか、それとも新幹線で一気に帰ろうか、普通列車でのんびり帰ろうか。迷わずのんびりコースを選ぶ。
途中、白石、福島、郡山、黒磯、宇都宮、と乗り継ぎ、都内まで7時間もかかったが、停車駅ごとの風情も楽しめて正しい選択だったとひとり納得する。
今回の旅で得たものはなんだろうかと考える。
旅で得るものなんてなんにもないさ、とひとりごちる(宮本輝か!)
とにかく電車バスの乗換えが多く、その間に持参した「海岸列車」の上下巻を読破したのが唯一得たものだろうか。
気仙沼に着いたのはよく晴れた寒い日だった。
ここからはやはりバスに乗り換えなければならない。このとぎれとぎれの路線をバスで運行させる形式をBRTといい、この地域ではもう定着しているらしい。「奇跡の一本松」までの切符を買った。
バスを降りた
風が強い
なんにもない
唖然とする
だだっ広いそのなんにもない土地には、工事用の長いパイプ状の橋桁と巨大な土の山と大型クレーンしかなく、その広原に強風による土ほこりが舞っている。
打ちのめされた
2011年3月11日14時46分、ここ陸前高田は壊滅的被害に遭った。
その同時刻、ぼくは東京で一人の女性客を乗せていた。その女性客は携帯電話で「泣かないでひろしちゃん・・」といい電話を切ったあと自分が泣き出した。ぼくはいまでもその光景が目に焼きついている。
もうこれ以上行かなくていいだろう。
あした東京へ帰ろう。
四日目 仙台~東京
きのうその日のうちに仙台に戻り、また初日のカプセルホテルに一泊。
さて、今日はどうやって帰ろうか。
来たときと同じ高速バスで帰ろうか、それとも新幹線で一気に帰ろうか、普通列車でのんびり帰ろうか。迷わずのんびりコースを選ぶ。
途中、白石、福島、郡山、黒磯、宇都宮、と乗り継ぎ、都内まで7時間もかかったが、停車駅ごとの風情も楽しめて正しい選択だったとひとり納得する。
今回の旅で得たものはなんだろうかと考える。
旅で得るものなんてなんにもないさ、とひとりごちる(宮本輝か!)
とにかく電車バスの乗換えが多く、その間に持参した「海岸列車」の上下巻を読破したのが唯一得たものだろうか。
一日目 新宿~仙台
新宿から7:30の高速バスに乗り、仙台に到着したのが13:10。約6時間もかかったが、ふだん仕事で長時間運転しているので客として乗ってる分にはぜんぜん苦にならなかった。
あした石巻に行く以外はこれといった予定も計画もない。仙台まで高速バスで2800円という格安で行けるという情報を入手し、この休みを利用して被災地の石巻まで行ってみようと、ほんの気まぐれに思いついた旅だった。なんの計画もたてず、なんの予定もたてず、なりゆきにまかせて気まぐれに、そんな旅にしようと思った。
でも初日の宿ぐらいは調べておくべきだった・・と仙台に着いてから少しの後悔を覚えつつ、駅周辺を散策して、また駅にもどり石巻までの経路を調べた。
仙台から石巻までは仙石線で一本で行けるのだが、震災の影響で不通の区間があり、途中バスへ乗換えをしなければならないとのことだった。なんにしても2時間ぐらいでいけそうだ。
市内観光などする気はさらさらなく、さっき見つけたカプセルホテルに今日の宿をとることにした。
二日目 仙台~石巻
仙石線の松島海岸でバスに乗りかえるのだが、松島海岸の2つ前の駅がぼくの乗った電車の終着で、ここで次の電車に乗り換えなければならなかった。次の便まではかなり時間があったので駅員に断わって改札の外にでて一服した。また改札から中に入ろうとしたら駅員さんが、「次の電車は折返しでまた仙台に戻る電車なので間違わないでくださいね~。お客さんの乗る電車は1番線の〇分発の電車ですよ~」と、ぼくが行先も言ってないのに、その駅員さんはかって知ったかのごとくぼくに親切に教えてくれた。ぼくの風貌を見て、地元の人ではなく旅人だとすばやく判断し行先を推理し、適切な助言を与えてくれたのだ。そのあたたかくのんびりした駅員さんの東北なまりの言葉だけで、ああここに来てよかったなと思った。
電車、バス、また電車と乗換えをくりかえし、ようやく石巻に到着する。
着いてから知ったのだが、ここ石巻は石ノ森章太郎の出身地らしく、街のいたるところに漫画の看板やらモニュメントやらがあり、漫画の街として街起しをしているのがわかる。
バス待ちをしているおばちゃんに震災のことを聞いてみた。
「そりゃすごかったよ~、ここまで水がくるんだもん!」と自分の胸のあたりを指さし、ひょうきんに身ぶり手ぶりでそのときの様子を笑いながらぼくに話して聞かせる。そのおばちゃんがひょうきんに話せば話すほどぼくはいたたまれなくなり、お礼を言ってその場から離れた。おどけてみせるそのおばちゃんにもあのときの傷は深く刻まれているわけで、おばちゃんの話を最後まで聞くことができなかった。そしてふと足元を見るとこんなものがあった↓

駅の入口に貼られていた浸水位置を示した看板だった。
北上川沿いに海岸線まで行ってみようと思い川べりまで歩いていったら、「石巻まちなか復興マルシェ 」がしずかに佇んでいた。
近くの中州に銀色のたまご型で宇宙船のような建物があった。行ってみると「石ノ森萬画館」というもので、これもあとになって知ったのだがこの建物も被災し二階部分まで浸水し、いまでは再館され復興のシンボルになっているそうだ。
海岸線まではまだまだ遠そうなのでバスで渡葉というところまで行く。
駅前はだいぶ復興はすすんでいるように見えたが、駅を離れるとまだまだ空地が多くあり、道沿いにある墓地の墓石も新しいものが多かった。渡葉に着くとやっぱり空地は多く、川沿いの護岸工事も海岸線まで永遠と続いているようで、復興もまだまだなのだなと感じる。
石巻駅まで戻り、さて明日はどこに行こうかと考えこむ。なにしろ思いつきばったりの気ままな旅だ。あした東京に戻ってもいいのだ。路線図を見ると「陸前高田」という地名がみつかる。そうだ陸前高田に行かずしてどこに行く!そうだ明日は陸前高田に行こう。
新宿から7:30の高速バスに乗り、仙台に到着したのが13:10。約6時間もかかったが、ふだん仕事で長時間運転しているので客として乗ってる分にはぜんぜん苦にならなかった。
あした石巻に行く以外はこれといった予定も計画もない。仙台まで高速バスで2800円という格安で行けるという情報を入手し、この休みを利用して被災地の石巻まで行ってみようと、ほんの気まぐれに思いついた旅だった。なんの計画もたてず、なんの予定もたてず、なりゆきにまかせて気まぐれに、そんな旅にしようと思った。
でも初日の宿ぐらいは調べておくべきだった・・と仙台に着いてから少しの後悔を覚えつつ、駅周辺を散策して、また駅にもどり石巻までの経路を調べた。
仙台から石巻までは仙石線で一本で行けるのだが、震災の影響で不通の区間があり、途中バスへ乗換えをしなければならないとのことだった。なんにしても2時間ぐらいでいけそうだ。
市内観光などする気はさらさらなく、さっき見つけたカプセルホテルに今日の宿をとることにした。
二日目 仙台~石巻
仙石線の松島海岸でバスに乗りかえるのだが、松島海岸の2つ前の駅がぼくの乗った電車の終着で、ここで次の電車に乗り換えなければならなかった。次の便まではかなり時間があったので駅員に断わって改札の外にでて一服した。また改札から中に入ろうとしたら駅員さんが、「次の電車は折返しでまた仙台に戻る電車なので間違わないでくださいね~。お客さんの乗る電車は1番線の〇分発の電車ですよ~」と、ぼくが行先も言ってないのに、その駅員さんはかって知ったかのごとくぼくに親切に教えてくれた。ぼくの風貌を見て、地元の人ではなく旅人だとすばやく判断し行先を推理し、適切な助言を与えてくれたのだ。そのあたたかくのんびりした駅員さんの東北なまりの言葉だけで、ああここに来てよかったなと思った。
電車、バス、また電車と乗換えをくりかえし、ようやく石巻に到着する。
着いてから知ったのだが、ここ石巻は石ノ森章太郎の出身地らしく、街のいたるところに漫画の看板やらモニュメントやらがあり、漫画の街として街起しをしているのがわかる。
バス待ちをしているおばちゃんに震災のことを聞いてみた。
「そりゃすごかったよ~、ここまで水がくるんだもん!」と自分の胸のあたりを指さし、ひょうきんに身ぶり手ぶりでそのときの様子を笑いながらぼくに話して聞かせる。そのおばちゃんがひょうきんに話せば話すほどぼくはいたたまれなくなり、お礼を言ってその場から離れた。おどけてみせるそのおばちゃんにもあのときの傷は深く刻まれているわけで、おばちゃんの話を最後まで聞くことができなかった。そしてふと足元を見るとこんなものがあった↓
駅の入口に貼られていた浸水位置を示した看板だった。
北上川沿いに海岸線まで行ってみようと思い川べりまで歩いていったら、「石巻まちなか復興マルシェ 」がしずかに佇んでいた。
近くの中州に銀色のたまご型で宇宙船のような建物があった。行ってみると「石ノ森萬画館」というもので、これもあとになって知ったのだがこの建物も被災し二階部分まで浸水し、いまでは再館され復興のシンボルになっているそうだ。
海岸線まではまだまだ遠そうなのでバスで渡葉というところまで行く。
駅前はだいぶ復興はすすんでいるように見えたが、駅を離れるとまだまだ空地が多くあり、道沿いにある墓地の墓石も新しいものが多かった。渡葉に着くとやっぱり空地は多く、川沿いの護岸工事も海岸線まで永遠と続いているようで、復興もまだまだなのだなと感じる。
石巻駅まで戻り、さて明日はどこに行こうかと考えこむ。なにしろ思いつきばったりの気ままな旅だ。あした東京に戻ってもいいのだ。路線図を見ると「陸前高田」という地名がみつかる。そうだ陸前高田に行かずしてどこに行く!そうだ明日は陸前高田に行こう。
まず、冒頭の海のシーン。轟々とうねりながら押し寄せてくる巨大な波、爆音と一緒に堤防をも砕かんばかりの勢いで迫ってくる波、波、波、・・・・これだけでやられました。
で、波のシーンが終わり画面が真っ暗になった。
シーンが変わり、カミソリを手にした爺さんが、逆さまに吊るされた真っ白なヤギの前に立っている。爺さんはおもむろに逆さになったヤギの首にナイフを入れ切り裂きだした。したたるヤギのまっ赤な血は下に敷いたゴザに落ちてゆく。そのゴザを小さなカニがゆっくりと歩いていく。
シーンが変わり、雲の間から大きな満月が顔を出す。浴衣を着たシマの人たちがチヂンを叩き、シマ唄をうたい、八月踊りをしている。ただひたすらに踊っている。
この始まりのひとつひとつのシーンだけでもう十分に満足です・・
ヤギを殺すシーン(血抜き)は一見残虐にも見えるが、奄美の人間ならだれでも知ってることで、自然界の尊いイノチを食らってぼく等ニンゲンは生かされているんだという、いわば儀式のようなものだ。このヤギを殺すシーンはこの冒頭と中盤にも登場し、この「2つ目の窓」の象徴なのだと思う。母親の死を目の当たりにしたときの杏子の目は、ヤギが息絶えるときにカッと見開いた目が乗りうつったかのごとく圧巻だった。
そして奄美の象徴といえば照りつけるティダ(太陽)だが、この映画でティダが登場するのは、杏子の母親が見上げるガジュマルの樹の枝葉からこぼれるわずかな陽射しだけ。そのこぼれる陽射しだけでもかなり強烈なのだが、あえてガジュマルによって遮らせて本当のティダを隠しているようにも見えた。逆にその奄美の象徴のティダよりも印象にのこったのがお月様だった。冒頭の八月踊りの時に出た満月をはじめ、昼間でも見える白い月、その他にもいろんな場面に月を登場させている。太陽は「生」であり「動」であり、月は「死」であり「静」であり、海は「動」であり、樹は「静」である。
杏子の母親が息絶えるときに、シマの人たちはサンシンを弾き、シマ唄をうたい、八月踊りをはじめる。そこには「生と死」も、「静と動」も同居している。母親が死んだあと、徐々に外に風が吹き始める。それは台風になりガジュマルの樹を揺らし海を荒れさせる。「死と動」さえもこの世界は同居しているのだ。
台風が過ぎ「静」の世界にもどった。荒れたガジュマルの枝を重機で伐採していくうちに、初めて本当の「ティダ」が顔をだすが、それはほんの一瞬でまたすぐに月が登場する。しかしその月は今度は満月ではなく半月よりやや膨らんだ月だった。
とにかくふとつひとつのシーンがとても印象的で、そのシーン毎にメッセージを持たせストーリーを展開していく。冒頭の波のシーンは、「ラストサムライ」の冒頭の渡辺謙が馬で疾走しているシーンを彷彿させ、見終わった後は「深呼吸の必要」をふと思い出した。「深呼吸の必要」は、ただただサトウキビ畑でキビ刈りを続けるだけのシーンの繰り返しで、そのサトウキビが風に揺れる「ザワザワザワ・・」とした音と、カッと照りつける太陽だけがなぜか印象強く心にのこっている。「深呼吸の必要」が「太陽」の映画なら、「2つ目の窓」は「月」の映画なのだろうか。あるいは「静」の映画と「動」の映画なのだろうか。
あと残念なことは、杏子のサンシンで踊る杉本哲太の六調があまりにヘタすぎ・・
で、波のシーンが終わり画面が真っ暗になった。
シーンが変わり、カミソリを手にした爺さんが、逆さまに吊るされた真っ白なヤギの前に立っている。爺さんはおもむろに逆さになったヤギの首にナイフを入れ切り裂きだした。したたるヤギのまっ赤な血は下に敷いたゴザに落ちてゆく。そのゴザを小さなカニがゆっくりと歩いていく。
シーンが変わり、雲の間から大きな満月が顔を出す。浴衣を着たシマの人たちがチヂンを叩き、シマ唄をうたい、八月踊りをしている。ただひたすらに踊っている。
この始まりのひとつひとつのシーンだけでもう十分に満足です・・
ヤギを殺すシーン(血抜き)は一見残虐にも見えるが、奄美の人間ならだれでも知ってることで、自然界の尊いイノチを食らってぼく等ニンゲンは生かされているんだという、いわば儀式のようなものだ。このヤギを殺すシーンはこの冒頭と中盤にも登場し、この「2つ目の窓」の象徴なのだと思う。母親の死を目の当たりにしたときの杏子の目は、ヤギが息絶えるときにカッと見開いた目が乗りうつったかのごとく圧巻だった。
そして奄美の象徴といえば照りつけるティダ(太陽)だが、この映画でティダが登場するのは、杏子の母親が見上げるガジュマルの樹の枝葉からこぼれるわずかな陽射しだけ。そのこぼれる陽射しだけでもかなり強烈なのだが、あえてガジュマルによって遮らせて本当のティダを隠しているようにも見えた。逆にその奄美の象徴のティダよりも印象にのこったのがお月様だった。冒頭の八月踊りの時に出た満月をはじめ、昼間でも見える白い月、その他にもいろんな場面に月を登場させている。太陽は「生」であり「動」であり、月は「死」であり「静」であり、海は「動」であり、樹は「静」である。
杏子の母親が息絶えるときに、シマの人たちはサンシンを弾き、シマ唄をうたい、八月踊りをはじめる。そこには「生と死」も、「静と動」も同居している。母親が死んだあと、徐々に外に風が吹き始める。それは台風になりガジュマルの樹を揺らし海を荒れさせる。「死と動」さえもこの世界は同居しているのだ。
台風が過ぎ「静」の世界にもどった。荒れたガジュマルの枝を重機で伐採していくうちに、初めて本当の「ティダ」が顔をだすが、それはほんの一瞬でまたすぐに月が登場する。しかしその月は今度は満月ではなく半月よりやや膨らんだ月だった。
とにかくふとつひとつのシーンがとても印象的で、そのシーン毎にメッセージを持たせストーリーを展開していく。冒頭の波のシーンは、「ラストサムライ」の冒頭の渡辺謙が馬で疾走しているシーンを彷彿させ、見終わった後は「深呼吸の必要」をふと思い出した。「深呼吸の必要」は、ただただサトウキビ畑でキビ刈りを続けるだけのシーンの繰り返しで、そのサトウキビが風に揺れる「ザワザワザワ・・」とした音と、カッと照りつける太陽だけがなぜか印象強く心にのこっている。「深呼吸の必要」が「太陽」の映画なら、「2つ目の窓」は「月」の映画なのだろうか。あるいは「静」の映画と「動」の映画なのだろうか。
あと残念なことは、杏子のサンシンで踊る杉本哲太の六調があまりにヘタすぎ・・
トラ猫だったと思う。
いつも人間の顔色をうかがっているようなおどけた猫だった。
あの日、40度を超えるうだるような猛暑で猫もぼくも狂っていたのかもしれない。
床に盛られた排泄物の前で、猫は媚びるような目でぼくをみつめていた。薄らわらいを浮かべて許しを乞うようにぼくをみつめている。ぼくは今度ばかりは許すまいと無表情で猫の目を見た。猫は相変わらずヘラヘラとぼくをみつめている。ぼくも猫の目を見る。
この猫は巨大な道化師か。あるいは感情を持ったヌイグルミか。しばしの睨みあいが続いたが、とうとう堪えきれなくなった猫は視線をはずし、チッと舌打ちをしたあとにニャーと鳴いた。
その瞬間、ぼくの中のなにかがキレた。
目覚めると全身に汗をかいていた。
そして、手のひらに残ったぐにゃりとした生々しい感触。
いやな夢だった。
いつも人間の顔色をうかがっているようなおどけた猫だった。
あの日、40度を超えるうだるような猛暑で猫もぼくも狂っていたのかもしれない。
床に盛られた排泄物の前で、猫は媚びるような目でぼくをみつめていた。薄らわらいを浮かべて許しを乞うようにぼくをみつめている。ぼくは今度ばかりは許すまいと無表情で猫の目を見た。猫は相変わらずヘラヘラとぼくをみつめている。ぼくも猫の目を見る。
この猫は巨大な道化師か。あるいは感情を持ったヌイグルミか。しばしの睨みあいが続いたが、とうとう堪えきれなくなった猫は視線をはずし、チッと舌打ちをしたあとにニャーと鳴いた。
その瞬間、ぼくの中のなにかがキレた。
目覚めると全身に汗をかいていた。
そして、手のひらに残ったぐにゃりとした生々しい感触。
いやな夢だった。